福岡高等裁判所 昭和29年(ネ)316号 判決 1958年10月30日
控訴人(被告) 熊本市長
被控訴人(原告) 榊伊代松
原審 熊本地方昭和二五年(行)第三四号(例集五巻三号61参照)
主文
原判決を取消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は主文同旨の判決を求め、被控訴代理人は「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする」との判決を求めた。
当事者双方の事実上の陳述、証拠の提出、援用および認否は、控訴代理人において乙第二ないし第四号証を提出し、当審証人井島一水、同小嶺一二および同平川恵吉の各証言を援用し、被控訴代理人において右乙号各証の成立を認めた外、それぞれ原判決事実摘示と同一であるからここにこれを引用する。
理由
被控訴人が訴外北村甚太郎より同人所有の熊本市下通町六十一、六十二番宅地百四十四坪二合九勺の内三十五坪二合一勺およびこれに隣接する同市鷹匠町三番宅地六十七坪三勺の内二十坪七合九勺を賃借し、右下通町六十一番の借地上に木造平家建店舖兼住宅建坪三十三坪五合の家屋を建築居住していること、右北村所有の三筆の土地が熊本市特別都市計画復興事業第一次土地区画整理地区に編入され同人に対しては下通町六十一、六十二番宅地百四十四坪二合九勺を百八坪に、鷹匠町三番宅地六十七坪三勺を五十二坪にそれぞれ減歩して換地予定地が指定されたこと、被控訴人に対しては昭和二十四年十月十九日控訴人より下通町六十一、六十二番宅地に対する被控訴人の従前の借地々積三十五坪二合一勺を三十四坪六合八勺とする予定である旨および鷹匠町三番地宅地に対する被控訴人の借地権はこれを消滅せしめ金銭をもつて清算する予定である旨の通知がなされ、その後控訴人が昭和二十五年十二月十九日新たに「換地予定地借地権の指定(消滅)について」と題する書面によつて下通町六十一、六十二番宅地および鷹匠町三番宅地の被控訴人の借地について前記同様の借地権の指定および消滅の通知をなし、次いで昭和二十六年十二月十九日市復第四三七号をもつて被控訴人所有の前記家屋を昭和二十七年三月二十九日までに借地権を指定した換地予定地内に移転すべき旨の移転命令(以下これを本件移転命令と称する)をなしたことはいずれも当事者間に争のないところである。
被控訴人は本件移転命令は違法無効であると主張するので、以下その主張する無効事由について順次判断する。
(一) 被控訴人は先ず「特別都市計画法(廃止前)第十五条によつて移転命令をなすには移転すべき換地予定地を明示しなければならないのにかかわらず、控訴人が昭和二十五年十二月十九日付をもつて被控訴人に通知した借地権の指定は単に下通町六十一、六十二番宅地の換地予定地に対する被控訴人の借地の地積を記載してあるのみで、その方位、角度、間数、形状等現地を特定すべき記載がないため右通知によつては全く現地を確認することができず、なお同月二十六日熊本市復興局監理課より被控訴人宛右通知書の添付図面として一葉の図面が追送されたが該図面によつても到底現地を特定することはできず、その他被控訴人は換地予定地に対する被控訴人の借地として指定された土地の範囲、境界等について具体的にこれを知り得る通知に接していない。被控訴人としてはかかる移転すべき地域を確認することのできない移転命令によつて現実に家屋を移転することは不可能であるから、本件移転命令は内容不明で実行不能の事項を命ずる行政処分として当然無効である。」と主張する。
成立に争のない甲第一号証(昭和二十四年十月十九日付「借地権の指定について」と題する書面)同第二号証(同日付「借地権の消滅について」と提する書面)同第五号証(昭和二十五年十二月十九日付「換地予定地借地権の指定消滅について」と題する書面)によれば、控訴人が本件移転命令をなすに先立ち前記の通り昭和二十四年十月十九日被控訴人に対し借地権の指定および消滅予定の通知をなした際その指定する予定の借地権の範囲は単に地番および地積をもつて表示されたこと、ならびにその後昭和二十五年十二月十九日借地権の指定および消滅の通知をなした際その指定する借地権の範囲はさきに発表した通りで何ら異動のない旨表示されたことは明らかである。しかし成立に争のない乙第一号証(借地調停申立書)および原審における検証の結果に徴すれば、被控訴人の借地として指定された下通町六十一、六十二番宅地の内三十四坪六合八勺については現地の二ケ所に木抗を打込んでその間口を明示してあり、又右指定の結果被控訴人所有の本件家屋はその北側において間口約二尺、奥行約五十六尺五寸の部分が被控訴人に指定された借地の範囲を越えて隣接の訴外沼田等の借地内に侵入することになるので、被控訴人も右侵入の事実を知つて沼田との間に円満な解決を図るため同人を相手方として熊本簡易裁判所に対し借地調停の申立をなした事実が認められるのであつて以上の事実によれば被控訴人は本件移転命令に先立ち自己に指定された借地の所在、および範囲を十分知悉しており、現地は特定されていたものというべきであるから、本件移転命令を内容不明確な行政処分として無効であるということはできない。
(二) 次に被控訴人は「本件土地付近一帯においては道路その他重要施設は既に完備し且つ宅地々積、借地々積の規模適正化のためになさる換地予定地の交付増減等の指定も完了し、事実上土地区劃整理は完成しているので、被控訴人の本件家屋を強いて移転しなくても土地区劃整理事業の遂行に支障を来すようなことは全くない。もつとも被控訴人の借地権が前記のごとく減歩されて指定された関係上被控訴人の従前の借地の北側の一部が訴外沼田等の借地に指定され、被控訴人所有の本件家屋の一部が同訴外人の借地内に食い込んだため同人の借地権に基く使用収益を若干妨げる結果となつているかもしれないが、このようなことは単に被控訴人と同訴外人間における私人間の権利関係の紛争にすぎず、土地区劃整理事業とは全く無関係であつて、前記のごとく土地区劃整理のためには何ら被控訴人の本件家屋を移転する必要はないのである。しかも控訴人の主張するところによつても訴外沼田等はすでに同人が当然移転すべき家屋部分の土地の所有権を取得し事実上その家屋を移転する必要がないのであつてみれば、本件移転命令は名を行政権の行使に藉りて私人間の紛争に介入し同訴外人の利を図るにすぎないものであつて、かかる権限の行使を誤つてなされた移転命令は当然無効である」と主張する。
原審における検証の結果に徴すれば、本件土地付近一帯においては道路その他都市計画上必要な施設はすでに完成していることが認められ、又本件土地区劃整理において宅地々積、借地々積の規模適正化のためになされる換地予定地の交付増減等の指定の完了していることは弁論の全趣旨によりこれを認めることができる。しかしながらさきに認定した通り被控訴人の借地として下通町六十一、六十二番宅地の内三十四坪六合八勺が指定された結果、被控訴人所有の本件家屋はその北側において間口約二尺、奥行約五十六尺五寸の部分が被控訴人に指定された借地の範囲を越えて隣接の訴外沼田等の借地内に侵入しているのであつて、このため同訴外人は右部分についてこれを使用収益することのできない状況にあることは明らかである。思うに右のように換地予定地の指定がなされたのにかかわらず従前の土地の関係者が建築物を換地内へ移転することを肯じないため、他の者がその指定された換地予定地の使用収益をなすことができない場合は、土地区劃整理に直接支障を来していることはいえないとしても、すくなくとも間接に同事業遂行の妨げとなつているわけであるから、かかる場合には土地区劃整理のための必要上建築物の所有者に対し移転命令を発することができるものと解するのを相当とする。もつとも前記沼田等はその指定された借地の北隣の土地を控訴人のあつせんにより換地予定地として取得した結果同訴外人所有の家屋はこれを移転する必要のなくなつていることは当事者間に争のないところであるけれども、右は単に同訴外人所有の現存家屋を移転する必要がないというにとどまり、同訴外人がその指定された借地の一部を使用収益することのできない状況は依然継続しているのである。又もし被控訴人と訴外沼田等との間に合意が成立すれば区劃整理上の操作によつて被控訴人が本件家屋を移転することを不必要ならしめることも可能であろうが、かかる合意のいまだ成立しておらず、却つて被控訴人と右沼田との間に本件借地をめぐつて紛争の生じていることは被控訴人の主張によつてもこれを推認しうるのであるから、本件移転命令の必要は明らかに存するものといわなければならない。仮に被控訴人の主張するように、指定された借地の使用収益をめぐる紛争は単に私人間の権利関係の争にすぎず私法上の解決に委ねれば足りると解し行政権による解決を否定するならば、当事者に対し過大な負担を課する結果となるであろうし、又成立に争のない乙第二、三号証(いずれも図面)ならびに当審証人小嶺一二および同平川恵吉の各証言によれば、熊本市特別都市計画復興事業による土地区劃整理施行地区においては本件以外にも建築物の移転未了の事例がすくなからず存することが認められるのであつて、これらの案件がすべてその当事者間の私法上の解決に委ねられるとすれば、争訟の頻発すべきことは当然予想されるのであり、かかる事態の生ずることを避けるためにも移転命令を発することの意義は存するものというべきである。
斯様に考察して来れば、本件移転命令は土地区劃整理のための必要上なされたものと解すべきであつて、控訴人において権限の行使を誤つた違法があるということはできない。したがつてこの点に関する被控訴人の主張はこれを採用することができない。
(三) 更に被控訴人は「控訴人は前記の通り土地所有者である訴外北村甚太郎に対しては平均二十五パーセントの減歩率を基準とし、下通町六十一、六十二番宅地に対しては百八坪の、鷹匠町三番宅地に対しては五十二坪の換地予定地を指定しているのであるから、下通町の宅地と一体として本件家屋の敷地となつていた右鷹匠町三番宅地に対する被控訴人の借地についても前記基準にしたがつて換地を指定すべきである。しかるに控訴人は鷹匠町三番の被控訴人の借地については何ら首肯すべき法律上の理由も必要もないのに不当にその全部の借地権を消滅せしめ、下通町六十一番の借地についてのみ換地予定地を指定したにすぎない。したがつてかかる指定は被控訴人の権利を不当に制限した違法且つ無効の指定で、右指定による換地内に移転を命じた本件移転命令もこの点において亦当然無効である」と主張する。
しかし特別都市計画事業として施行される土地区劃整理について借地々積の規模を適正ならしめるために必要があるときは過少借地の借地権に対し従前の権利を消滅せしめて金銭で清算することは法の許容するところである。勿論斯様な措置も法の目的とする公益の原則にしたがい且つ公平になされることを要するから、もし公益の原則に反し或は著しく公平を欠くような内容である場合には違法たることを免かれないけれども、本件において被控訴人に対し鷹匠町三番の借地権を消滅せしめたことが公益の原則に反し或は著しく公平を缺くものであることを認めるに足りる証拠は存しない。したがつて控訴人が被控訴人の右借地権を消滅せしめたことをもつて直ちに違法であるということはできず、本件移転命令がこの点において無効となるいわれはない。
(四) 最後に被控訴人は「控訴人は本件移転命令において、もし被控訴人が所定の期限までに本件家屋を任意に移転しない場合は代執行をなすべき旨明示し、あらかじめ代執行を予定して移転を命じているのであるが、本件においては被控訴人が強いて本件家屋を移転しなくても何ら公益に反するようなことはないので代執行をなすべき余地は全くない。かかる違法の要素をふくむ移転命令は全体として命令自体の無効を来すものである」と主張する。
控訴人が本件移転命令において、もし被控訴人が所定の期限までに本件家屋を任意に移転しない場合は代執行をなすべき旨あらかじめ戒告していることは当事者間に争のないところである。そして行政上の義務の履行を確保するため代執行をなすべき旨あらかじめ戒告するのは、命ぜられた行為を義務者が履行せず、その不履行を放置することが著しく公益に反する場合に限られることは被控訴人の主張する通りである。しかし本件において被控訴人が命ぜられた家屋の移転をなさない場合その不履行を放置することはさきに説示した通り本件土地区劃整理の遂行に支障を来すわけであるから、著しく公益に反する場合に該当するものというべきである。したがつて本件命令に付加してなされた代執行の戒告が違法であるということはできず、この点に関する被控訴人の主張も採用し難い。
以上の理由により、被控訴人が本件移転命令の違法無効であるとする事由はすべてこれを認めることができないから、その無効確認を求める被控訴人の本訴請求は失当として排斥すべく、これと結論を異にする原判決は取消を免かれない。
よつて訴訟費用の負担について民事訴訟法第九十六条、第八十九条を適用し、主文の通り判決する。
(裁判官 林善助 丹生義孝 佐藤秀)